ソニー、退路なきソフト路線 (時流超流):NBonline(日経ビジネスオンライン) 2007年5月7日、という記事がありまして、うわストリンガーさんすげぇ!とコーフンしながら読んでいたのですが、末尾近くの言い回しに違和感を覚えました。"「まずコンテンツやサービスがあり、それを生かすハードを開発する」というのが、ストリンガー流の新しいモノ作りだ。"って書いてあったのですが、自分にはそこまでの記事内容ははっきりと『モノ作りからの離脱』に見えたからです。
ちょっと「ハイテクハイテク日本はやっぱりモノ作り」というジョーシキを吹っ飛ばすクロスカウンターがあった方が良いと思うので、なんか書いてみます。
経済学は20世紀に入ると、経済発展を産業構造の変化という視点でとらえるようになります。有名なのは「クラークの産業分類」。第一次とか二次とかいうアレ。これをちと改造してみなれんかと探してみました。もくじのうちイ・ロ・ハはWikipediaとかからの切り貼りです。そんなのしってるよと言う方は『ニ)1980年代:中村雅哉の第五次産業論』から読み始めるのが良いと思います。
【もくじ】
コーリン・クラークの産業分類:「ぺティ=クラークの法則」
経済発展につれて、第一次産業から第二次産業、第三次産業へと産業がシフトしていくという説。
批判:
たいへん有名で、まぁ、ジョーシキなわけですが、第三次産業の雑多さが、現実の把握を難しくもしています。端的に言えば「日本はものつくり大国」というジョーシキ。これちょっとハバ効かせ過ぎ。 もうちょっと細かい分類をジョーシキにもって行かなければ、産業構造のシフトが進みません。例えば、製造業のエラいヒトが、腹の底では三次産業を十把一絡げに見下してしまったりします。
60年代の日本人は、きっちり第二次産業を細かく要素分解しています。
第二次産業のなかでも、製造業の古典的な分類はこう。
古典的な経済学では、工業化の進展に連れて重化学工業の比率が高まってゆくと言われていました。しかし1960年代の日本人は、重化学工業化率がアメリカやイギリスの同水準に達しているのに、製造業の生産性に大きな差がある事に悩んでいました。これは古典的な分類では説明が付きません。篠原三代平さんは製造業をさらに分解し、以下のように結論づけました。
こうして、経済発展の指標として高加工度化という分析視点が不可欠とされるようになりました。
…コイツは解りやすい。これが「ハイテクハイテク日本はやっぱりモノ作り」というジョーシキの素だと 思います。1967と言えば、東京五輪にはじまり大阪万博に終わるいざなぎ景気の真っ最中。巨人・大鵬・卵焼き。翌1968には日本のGNPが世界第二位になっています。ついでに「未来のテレビ」の研究も始まっています。
ようするに「オレタチはマダマダこれからだ。もっと発展するぞ!」という自覚が最も強い時期です。だからこそ、高加工度化が不可欠の分析視点になったのでしょう。この考え方が英米から生まれて来る事はなかったと思います。当時の日本人は、「追いつく為に必要なのはナニカ?」「オレタチに欠けているものはナニカ?」といつもいつも探していたのです。
1970年代になると、産業構造の知識集約化という視点が注目されるようになります。例えば:
経済発展につれて同じ産業であってもより知識・技術の集約度の高い方向へと変化し、「物」の生産そのものよりも「情報」の生産がより大きな付加価値を生むという見方。
マーク・ポラト、『The Information Economy』(1977)の定義:(【PDF】知識・情報集約型経済への移行と日本経済 - 経済企画庁研究所・1999)
…コイツは解りにくい。
そうなるとこの分類は「世間のジョーシキ」にはなれない。無理。
「知識・情報集約化」といえばまぁなんとか肚に落ちないでも無いですが、その作業自体は個人でも農業でもやってることです。ぶっちゃけ江戸時代中期の「農学書ブーム」なんてモロにそうです。そもそも非市場(組織内)っていう分類がある事自体、マークさん自身が、これわ従来の産業分類とはぜんぜん別の考え方ですと言ってるようなものでしょう。
いま以上に成長したけりゃ、いや、豊かさを維持したければ、経済の見方を変えろと、「ぺティ=クラークの法則」はちょいと横に置いておけと。
情報関連職種(一般事務従事者を含む)の雇用者数の雇用者全体に占める比率をみると、80年の36%から95年に40%へと上昇している。そのなかで特に伸びの大きいのは、研究者・技術者・デザイナーなど「情報の創造・生産」や会社役員・管理者など「意思決定・計画・ 調整」に携わる職種である。
【PDF】 知識・情報集約型経済への移行と日本経済 - 経済企画庁研究所・1999 - P2
経営者の意思決定を「情報」と呼ぶのはまだ良いとして、デザイナーの仕事を「情報」と呼ぶのはコトバとして違和感が残ります。ハラゴナレが悪い。 だいたい、最初に知識産業化や情報化を定量的に分析したマハループさんは、母親の家庭内教育も計算して生産に加えています(P7)。「ものの見かた」としちゃぜんぜん「ぺティ=クラークの法則」に組み込めない。てゆうか、そもそも「モノ」は見てないわけですから、別ものの軸です。
だからほんとうは、「産業の情報化」ではダメで「情報の産業化」にアタマを切り替えないとイケナイ。
…でも一足飛びには無理だよそりゃ。オレが欲しいのは日経あたりに巣食う「ハイテクハイテク日本はやっぱりモノ作り」というジョーシキを吹っ飛ばすクロスカウンター。ジョーシキとの乖離は"半歩"でなきゃイケナイ。
『高次の産業ほど高付加価値を生み出す』
…非常に簡単だ。これなら知識サービスにソフトウェア生産を、情緒産業にコンテンツを、ぽんぽんと貼付けてゆける。
中村雅哉さんは(株)ナムコの創業社長。コイツはなかなかカネを貸してくれない銀行にかますハッタリとして考案した理屈だそうな。つまり、簡単なダケに潰しが効く。とりあえず学者さんは学者さんで。
え?ゲームですか?と渋る銀行に『高次の産業ほど高付加価値を生み出す』とぶち上げる。こいつに異論を噛ますヤツは居ない。たかがゲーム屋のオヤジにしては…と姿勢を糺したところへこの分類を噛ます。「ぺティ=クラーク」は基本常識だが修正の必要がある事もまた常識。情報産業?産業構造の知識集約化?知識・技術の集約度の高い方向?、、、コトバは知ってても実感を持ってるヤツはそうそう居ない。一次⇒二次⇒三次と産業構造がシフトするってのはわかるけどさー、三次のドコ?ってところだ。もっと解りやすい解説はないものかとみんな悩んでる(またはフドーサンの事を考えている。ホントはギンコーこそ知識サービスの最先端なんだけどね)。
そこへ知識サービスにソフトウェア生産を、情緒産業にコンテンツを、ぽんぽんと貼付けて見せる。ポイントは「情報」という曖昧すぎるコトバを排除している事だ。小難しい事を解りやすく見せてくれるものほど人を平伏させるものは無い。「おお」っと平伏したところへ、オレがそいつを見せてやる!と浴びせかけたわけだ、、、永田喇叭さんに匹敵する傑物だと思うよこのヒト。長生きして下さい。
三次のドコ?ドコが伸びるの?って悩みは2007年現在でも社会全体を覆っている。もっと解りやすい解説はないものかとみんないまだに悩んでる。理由はいくつかあるだろうけど、端的には「ハイテクハイテク日本はやっぱりモノ作り」という「曖昧すぎるジョーシキ」が目隠しになってる。
新技術が導入されるときはいつでも平衡を取り戻そうとする人間的反応があるものです。ここをカバーするものをハイテクに対して「ハイタッチ」と言うそうですが、この「ハイタッチ」がなければ技術は拒絶されます。ハイテクであればあるほど一層「ハイタッチ」が必要となります(ジョン・ネイスビッツ、『メガトレンド』など)。
「タッチ」の語感は解りませんが、「ヒューマンタッチ」とか「おもてなしのココロ」とか、そんなカンジだと思います。
日経あたりの「ハイテクハイテク日本はやっぱりモノ作り」に脳を汚染されると、ハイ・タッチも知識集約型産業に不可欠な要素だというのがボヤけてきます。もともと掴みにくくて精神論になりがちな部分ですが、客を見てればわかるようにも思えます。この点、Apple Storeを顧客とのコミュニケーション・チャンネルとして使い、流通や修理サービスまで一貫して自社で囲いこむAppleは要警戒S+です。
「ゲーム会社」が世間的に「立派な会社」と見なされるようになった90年代は、ナムコ、セガ、ともにゲーセン向け機器開発、ゲーセン運営、家庭用ソフトの二強でした。セガに至っては家庭用ハードも擁していました。スクエア・エニクスのようなパソコン・家庭用ゲームからやって来たソフト専業会社との最大の違いは、スマッシュヒットの数。
ハイタッチを会得する上で、ゲーセン運営は不可欠の情報チャンネルだったでしょう。ナマで、日々顧客の反応を見ている社員が居る、というのは強い。彼らの存在感が90年代終盤に縮退していった理由はここでは深入りを避けますが、当時のゲーマーがハイテク疲れを起こしていた事は言うまでもありません。ゲームに代わるように存在感を増したi-modeは自分には「よりハイテクとハイタッチのバランスに勝る娯楽」に見えました。
あるエンジニアが、NTTドコモ社内の「技術功労賞」を獲得した松永氏に対して、皮肉をこめてこんなことを言ったそうだ。
「それで、松永さんは一体どんな技術を開発したんです?」
すると、松永氏をNTTドコモに誘った上司が、松永氏を弁護してこう答えた。
「真理さんはね、サービスという技術を開発してくれたんだよ」
『iモード』の生みの親、松永真理の実像に迫る(下) - HotWired 2001/05/30
自分はケータイの「技術では勝っている、負けたのは垂直統合の所為だ」という意見には冷淡な態度を採っていますが、端的に理由を示すとすれば、このエピソードが適切です。またこれは、松永氏の功賞にあたって適切な賞を案出できなかったNTTドコモという組織の限界も示していると思います。
話はかわりますが「クリエイタ」というのは暴走するものです。好き勝手に作らせても売れるものはできません。「編集者」なり「アーチスト&レパートリー」なりの、テイマー(調教師)がいて初めて「芸」になり、お金が貰える。エンジニア(技術力)についても似たような事が言えると思います。
ビル・ゲイツ、松永真理、スティーブ・ジョブスの共通点を挙げるとすれば、エンジニアというよりは、エンジニア・テイマー(調教師)の資質を持っている事です。「ハイテクハイテク日本はやっぱりモノ作り」は、この問題を意識から追い出してしまいます。
AppleのiPhoneは、iTMS/iTunesという"垂直統合"を世界中のケータイ市場に持ち込みます。彼らは外部調達で充分な「技術力」はスパッと切り離して、最終商品とサービスの「まとめ」能力だけを保持しています。中の部品がどこ製だろうと気にするのは自分のようなマニアだけですし、取り分が一番デカイのはAppleです。
組織が肥大化し、細分化し、顧客とエンジニアの距離が開けば開くほど、ナニカが見えなくなります。『鼻の効く傑物+垂直統合モデル』はこの距離を埋める上で極めて有効です。ここでは深入りしませんが、同じ効果を発揮できるなら必ずしも『傑物+垂直統合モデル』に拘る必要は無いと思います。というのは、垂直統合には、傑物を失った瞬間に迷走を始めるという構造欠陥があるからです。
中村雅哉さんの第五次産業論を採るならば、日本の産業構造の問題は高次産業が低次産業に従属している事です。
特に四次(知識)は二次-b-ii(組み立て産業)に厳しく従属しています。プログラマが「ハケン」で労働環境が著しく厳しいという状態が、国際的には存在感ゼロの現状を生んでいる。というのがそう思う理由です。
青色半導体の発明訴訟みたいな話もときどき新聞に出ます。実際には彼らこそが「価値を創造する人々」なのですが。
端的には「ハイテクハイテク日本はやっぱりモノ作り」という「曖昧すぎるジョーシキ」が、彼らに正当な報酬が渡るのを妨げてるように思います。
特に発明訴訟はモトローラ⇒フリースケールみたいな技術開発部門の「スピンアウト(事業の分離独立)」が盛んであればかなり抑止できるのではないでしょうか。資本効率からいってもそっちのほうが良い筈です。「組み立て産業」は商品コンセプトに特化できますし*2。技術者は「売れる技術」に集中できますし。開発と営業のコミュニケーションなどで苦労するより、マーケットで市場価格を付ける方が手っ取り早いです。日本の技術が優れているなら尚更でしょう*3。技術がどれほど優れていてもルネサスの経営を褒める人は居ません。この資本構成では期待し難いものがあります。
やはり日本の儲けを損ねているのは、経営層の脳内に巣食う「ハイテクハイテク日本はやっぱりモノ作り」だと思います。
いつか四次・五次の細分化が必要になる日が来るにしても、既に国際的には四次の細分化が進んでいるにしても、「情報の産業化」だって急速に進展してるにしても「日本のジョーシキ」は、遥かにソレ以前の段階にあると思います。
なお、「モノ作り」とはちと外れますが、五次(情緒)も三次(非物質的配分)に厳しく従属しています。番組製作やアニメータの所得が著しく低く、またコンテンツの版権を獲得する事も稀という現状が、そう思う理由です。実際には彼らこそが「価値を創造する人々」なのですが。
*1)金融業は打ち消し線で分類から除外した。彼らのお仕事はこの一軸分類上を嗅ぎ回って、成長性/収益性の見込めるところへ資金を投入することだと思うので。
*2)その部分が「知識集約」なので、倫理的にはこの一軸上の上下関係は妥当では無い。
*3)売れなかったら「優れていない」と言う事で、これまたハナシが速い。