世界のデジタルテレビ方式(地上波)
紺・青はEU方式、緑はアメリカ方式、黄土色は中国方式(予定)、ピンクが日本の地上波デジタル・ハイビジョン。
自分はこの図を見て、日本のテレビ技術は世界市場を失ったと思いました。「日本製だから性能が悪い」が世界の常識となるまで、10年とかからないでしょう。
以下の記事は、日経ビジネスオンラインの『誰のためのデジタル放送か?」(前編、後編)を中心にweb上の情報を切り貼りしたものです。目標は、地上波デジタル放送の諸問題のリストアップ。簡易なものですし、特に裏取りもしてません。著作権上問題がある場合はコメント欄にてお知らせ下さい。
地デジにまつわるさまざまな厄介事は構造問題。これを生んだものは、放送免許制が生んだ閉鎖市場。
ひらたく言えば「古い自民党」。抽象的には、民主的手続きの欠如、不足する経済成長ビジョン、過剰な利益誘導政治、などなどなど。具体的には、大量の地方局が既得権益化・圧力団体化し、族議員を通して政策マシーンに影響を与えている(業界団体、兼公益法人、兼官庁組織)。メディア資本による洗脳戦が、これに拍車をかける(テレビ局および系列新聞・MSM)。
これらによる複合汚染の結果、放送市場では競争原理が有効に機能せず、イノベーションに向かう動機が無い。
したがって、課題は構造改革。たとえば郵政改革に匹敵する作業が必要だ。
手をこまねいて地デジを受け入れれば、情報革命どころか、日本そのものが三等国家に成り下がる。
アメリカのTV局はインター ネットの活用方法を探り始めています(事例
1,
2,
3,
4)。
とくにCBSの最高経営責任者は、インターネットでコンテンツを入手したいというユーザーニーズの取り込みに失敗した音楽業界の前例に留意すべきだ
と公言し、Slingboxのような小さな(しかし独創的な)会社と協調しています。なかなか巧くは行っていないようですが、YouTubeとの提携にも積極的です。
一方、日本のTV局は、コピワンで視聴者の利便性を下げ、YouTubeを監視する部署を作り、録画NetやまねきTVのような小さな(しかし独創的な)会社を訴えるなど、敵対的な動きを強める一方です。
そこに巨大な需要がある事は確実なのに、手をこまねいて「自分以外」の非を鳴らすだけ、というのは当事者能力を欠いています。「放送は生で見るものです。アサクラさん」とか、「崇高な放送の世界を邪悪な世界に引き込もうとしている」てのは商売人の台詞というよりは、むしろ「印刷聖書には神の祝福が無い。手にする者は破門!」てのに近いでしょう。
人間はだれでも「わたしのいうとおりにしなさい」を原則に行動するものですが、通常はなんらかの力で威圧したり、利便性を提供したり、倫理観で裏打ちしたりとミックスするものです。組み合わせのバランスが悪いと通りが悪くなり、非難されたり売り上げが落ちたり権威が減退したり学校で無視されたり、します。
特に、競争相手のいない市場では、このバランスを意識する事が困難になりがちです。自分の利便性が相対的に落ちている事に気付くのが遅れ、倫理的な主張だけを強化してさらに支持を失うといった悪循環に陥りがちです。例えば、アメリカの自動車産業(80年代)や、日本の半導体産業(90年代)は、外国メーカーにそんなに安く売るなんて良く無いと文句を言って回ったものです。その後、いずれの業界も代償を支払う結果になっています。
安定した高収益が入って来る構造には、イノベーションを殺すというデメリットがあります。無風状態のカースト制度の頂点に長く居れば居るほど、外からくる変化にどうしていいかわからなくなるものです。ただの技術革新の事ぢゃないですよ。アタマが固くなり、視野が狭くなるという事です。
総務省が放送区域を県域に限定している事。理由は以下の三つがあげられる。
これは、田中角栄が派閥議員に利権を分配するシステムとして編み出した。地方局の社長は地元選出国会議員と関係が深いケースが多い。
角栄さんって事は元々は、高度経済成長がもたらした「格差社会」を糺すっつうニシキノミハタがある。「カネが無ければあるとこから持ってくれば良い」というストレートな治水灌漑の発想だ。どこもキャッシュフローが真っ赤で当然だろう。折角ひいた水を溜め池においとくだけでは意味が無い。「地域経済活性化のために」全部吐き出してるに違いない。
日本の汚職利権政治家の特徴は、集めたカネをまめに手下にばらまく事。ナニワブシや任侠親分みたいな気風がある。彼らからすれば「市場の原理」こそ私利私欲の権化にみえるだろう。
だが、どんな正義も30年も安住してりゃ腐る。
東京にある放送局が事実上地方局を支配している事。
新聞社が放送局の株式を保有。この結果、MSMが報道できる範囲が狭まる。端的にはクロスオーナーシップの問題点、地デジの問題点などには、構造上、筆先が鈍ると考えられる。
逆にここに着目して、TV局より新聞社を買収してしまえば速いという考え方もあるが、新聞社は一般に「言論の自由を守る為」株式を公開していない(経営状況もわりと不透明だったりする)。
番組の著作権は放送局が持ち、制作会社や制作者には著作権が与えられにくい。 作品の権利を『価値の創造者』であるクリエイタではなく、インフラの保有者が持つ事には様々な弊害がある。
1)経済価値の毀損
コンテンツの潜在価値よりも、自分が保有するインフラの利益最大化を重視してしまう。多メディア展開ビジネスの成功例は『価値の創造者』が権利を保有しているケースが多い(例:ポケモン)。
2)不適切な報酬体系
『価値の創造者』であるクリエイタに成果に応じた報酬が渡りにくい。
記者会見を記者クラブ加盟社が独占
この項、放送利権(wikipedia)ほか
加盟200社。地上波テレビ局はこのうち約130社。さらにそのうち地方局は一県一波政策により約110社にのぼる。
民放連の意向は、キー局からの“補助金”でなんとか成り立っている地方局の利害を反映しやすい。
地方局の経営は、ローカル広告だけでは成り立たないので、系列のキー局や関テレなどの制作側が補填するのだ。地方局は、タダでもらった電波を又貸しし、商品(番組)を供給してもらう上に金までもらえるという、世界一楽な商売である。
池田信夫 blog テレビ業界という格差社会
「地方局炭焼き小屋論」:放送衛星から日本全国にダイレクトに電波が降ってくるようになると、地方局は炭焼き小屋みたいに時代遅れで意味のないものになってしまうと。とにかく衛星放送を止めさせようと運動した。その結果、日本はこの分野で米国よりも10年は遅れてしまった。
米国では地上波は少数派。85%ぐらいの人はケーブルでテレビを見ている。
日本ではケーブルテレビの免許を市町村単位に限ったのでなかなか普及が進まなかった。
・規模の経済が効かない。今でも日本のケーブルテレビは半分ぐらいは赤字。
・そういう状況を作り出したのが特に地方の地上波放送局。競争相手をあらゆる手を使って封じ込めてきた。
キー局は変わることをひたすら拒否するようなバカなことをやっててもしょうがないと思っている。自分たちで制作したコンテンツを持ってるから、それらを様々に再利用するチャンスがある。しかし、そういうことにさえ、地方局からごたごた文句がついてくるわけです。「地方には地方局がある。その頭越しに映像番組を配信されちゃ困る!」ってね。そういう地方局が民放連では多数派だから、キー局が仕切ることができない。国連と同じですよ。大国も1票、小国も1票なんです。
■TV 局がコピープロテクトをかけたいのはどこの国も同じだが、日米ではその決定プロセスに大きな違いがある。
米国では:3年ほど前に同様の議論があった。FCCが、日本よりもずっと緩い制限をかけようと技術条件を提案したところ、大反対が起き、訴訟で潰れた。
日本では:FCC 案よりもはるかに“横暴”なコピーワンスを、視聴者にほとんど何の説明もないまま導入。3年前の4月1日から突然デジタル放送にプロテクトがかかって見えなくなった。「B-CASカード」を挿さないとテレビが見られない。それを事前に知っていて、理解していた人は僅かでNHKには1日に何千件もの苦情と問い合わせの電話が来た。
■コピーワンスの技術仕様を詰めたのは、社団法人電波産業会(ARIB)。
名目上は民間企業が集まって自主的に検討したという形だが、幹部は総務省のOB。実質的に総務省がやらせているのに、形式上はアカウンタビリティー(説明責任)もパブリックコメントも必要ないという、“抜け道”になっている。
テレビはともかく、それ以外のメディアもこの件を問題にしなかった。テレビ局と新聞社は全部系列だから。
■B-CAS(ビーエス・コンディショナルアクセスシステムズ)
顧客情報管理センターに日本全国のテレビと個人の情報を集めている。無料放送でそこまでする必要があるのか(カードを挿しておかなければ放送が見られない)。NHKと民放、メーカーなどが作った会社だが、マスコミの取材に応じようとせず、実態が不透明。こうした会社が、視聴者への説明もなしにB-CASシステムを一方的に押しつける権限はなにか?
■放送が真に「公共の使命」を担っているのなら、こうした意思決定プロセスは不適切。
B-CAS社が個人情報流出をおこした場合、MSMがきちんと報道するかどうか疑問が残る。
この項、ITmediaアンカーデスク:デジタル放送にまつわる、いくつかの裏事情(小寺信良さん: 2005/07/04)より
■デジタル固有の脆弱性
CSデジタル放送が新しいロゴマークを配信したときに、テレビのファームウェアが壊れ、テレビ自体が何も映らなくなったケースがある。
※シャープ:液晶テレビ
■この脆弱なシステムが個人情報を抱えている
デジタル放送対応テレビでは、クレジットカードでのショッピングが可能だが、カード番号を含む個人情報は、テレビ内部にも記録が残る。B-CASカードにも個人情報を記録するエリアがある。個人情報をどこに記録しておくか、またデータをどのように暗号化するかなどの判断に関しては、すべてがメーカーまかせになっており、共通のガイドラインなど存在しない。
また、同メーカーのリモコンを使って、せいぜい4ケタの暗証番号を使えばこの機能にアクセスできる。
さらに、廃棄や譲渡の際には初期化が必要。
このシステムをイマドキWinny使ってるようなレベルよりさらに「デジタル慣れ」していない人々が使う事になる。
※この項、ITmedia +D LifeStyle:デジタルテレビに潜む危険と脆弱性(小寺信良さん: 2005/08/29)より
※あまねくすべての人がサービスを享受できるべき、とする公共サービスの理念。
(災害時には)被災者にとってテレビによる情報提供というのは非常に重要だ。避難場所にどこかからテレビを引っ張ってきてアンテナさえ立てれば、とりあえずなんか映る、というぐらいレガシーな部分を残しておかないと、放送というのは役に立たないのではないか。
前項のような複雑さ、デジタル固有の脆弱性を抱えたシステムだけに頼りきるのは時期尚早の印象をぬぐい去れない。アナログ停波は大規模災害をいくつか乗り切って、固有の問題を洗い出してからでも遅く無いように思う。震災時に家のテレビが生きていたからといって、それを避難所でみんなに使ってもらおうという気にならないケースも出て来るだろう。
※この項ITmedia +D LifeStyle:デジタルテレビに潜む危険と脆弱性 (4/4)(小寺信良さん:2005/08/29)より
サイバー法の権威として知られるスタンフォード大のローレンス・レッシグ教授の考え方によると、現在のインターネットでは著作権の概念が著作権者によって果てしなく拡大解釈される方向に進んでいる。今ほど、著作権者の立場が強くなった時代は歴史上存在しないという。
技術は、法とその運用の的確なバランス感覚を持つことで発展するため、単に規制するという一点張りではトータルな社会的コストが上昇してしまう。そうなると権利者も損をする可能性があるため、線引きは容易ではない。
著作権者や企業の権利はどこまで保護されるべきなのだろうか、どこまでユーザーの自由は認められるべきなのだろうか。
※この項、ユーザーが勝手に作ってしまった「ガンダム」新作ゲームタイトル:IT-PLUS(07/04/13)より
放送映像の著作権を保護しなければならないという放送局や著作権者の主張はもっともですが、肝心なのはバランスです。著作権を守れと声高に叫んでいるのは、真ん中に入って仲介している人たちとの印象がぬぐい切れません。つまり、放送局や映画会社、出版社が、販売業者の独占的利潤を守ろうとしている面が強いです。
「著作権」というコトバ自体がまぎらわしいので、ちょっと区別をつけたほうが良いと思います。
- 著作者人格権
- 公表権、氏名表示権、同一性保持権など。
- 必ず「著作者」が持っている。放棄できない。
- カネにならない。
- 著作財産権
- 著作物の財産面に関する権利。コピーライト、公衆送信化可能権、など。
- 契約で譲渡できる。「著作"権"者」と「著作者」が同一人物とは限らない。
- カネになる。
ITmedia +D LifeStyle:著作権保護期間延長はクリエイターのためになるか (2/3) より作成。
人を平伏させる効果があるのは、A.です。B.はそうでもありません。でも、フツーの人々にとってはどちらも「著作権」ですから「著作権者団体」はわざとこれを混同させるように喋ります。「著作者」の中にも、混ぜこぜに喋る人が居ます。人間の習性を応用した営業トークです。
ここでは法律上の正確さは脇に置いて「原著作者の権利」と「コピーライト」と言い換えてみます。
ミもフタもありませんが、実は著作権をめぐるあらそいというのは、タダの価格交渉です。著作権というとすぐに文化だ芸術だと言う感じで平伏してしまいますが、ほんとうは関係ありません。そういうものの価値はですね。キミのココロの中にあるのさっ(ageha 続・あたらしい著作権のはなし)。
そうは言っても放送映像の著作権を保護しなければならないという放送局や著作権者の主張はもっともです。なにも無視して良いとは思っていません。
ところで、なぜ、放送局がコピーライトを持っているのでしょうか?
経産省は2005年にコンテンツ産業全般に渡る分析を公開しています(平成17年2月、コンテンツ産業の現状と課題(pdf直接リン))。その中から適当に拾うと、、、
要するに、テレビ局の支配力がでかすぎると言っています。それが日本のコンテンツ産業の成長を阻んでいると。そして『価値を創造する人々』に版権を持たせろと。
これよりやや古い報告では経産省の今後の施策が挙げられています(平成15年「アニメーション産業の現状と課題」(PDF直リン))。抜粋してみると、、、
要するにキー局の経済的支配を切らねばならないと言う事です。具体的な金額を示した図もあったので模写してみました。
ここではアニメを中心にしてみましたが、「あるある大辞典」のような番組でも、『価値を創造する人々』に渡る金額は大同小異のようです。なお、「地方局」の取り分が一番デカイです。一県一波政策のおかげでキー局は地方局を支配しているというよりは「お金を払って放送していただく」立場にも見えます。それが下請けに回るかどうかはまた別の話ですが、地方局を整理すれば随分とコストカットできそうに思えます。
その結果がこの数値です。
コンテンツ産業のGDPに対する割合米国 | 世界平均 | 日本 |
---|---|---|
4.70% | 3.15% | 2.66% |
(※首相官邸知的財産戦略本部/知的財産推進計画2006・別冊参考資料(H18.6.8)P30より)
あとMac OSXでは完全に手段がねーです。昨年のDVDレコーダーの国内出荷台数は、前年比18%減となった。世帯普及率はまだ40%台なので、これは市場が飽和したためとは考えられない。その最大の理由は、関係者が一致して指摘するように、コピーワンスのおかげで操作が複雑になり、普通の視聴者には扱えない機器という印象が広がったためだ。たとえば、あずまきよひこ.comで紹介されているように、番組をPCで見るためには、DVD再生ソフトやDVDドライブなどをすべて買い換えなければならない。
池田信夫 blog デジタル家電の足を引っ張るデジタル放送
もちろん、コピーライトが無ければ「原著作者」が食べて行けませんから、無くて良いというものではありません。
しかしながら、日本の現状では、TV局のコピーライト強化は、只でさえ強力なTV局の支配力をさらに強化する事になります。極めてバランスを欠いています。
のみならず、日本最大の情報流通網であるテレビのコピーライト管理が、他の分野に影響を及ぼさないワケがねーです。著作権、著作物のフェアユース、正当な引用の範囲、言論の自由。いずれも多大な影響を受けるでしょう。って事で、どーせなら大きく出てみましょうか。
自分はコピワンのみならず、機械的なコピー防止策はいかなるものであれ全て、この条項に抵触すると考えています。知的財産権の侵害は、個別具体的な事例ごとに下手人を取っ捕まえて、判断を下すべきものでしょう。全国民の、全ての著作物のフェアユースを、あらかじめ一律に制限するのは、過剰防衛です。
たとえばこの記事は、ほとんど他人様の書いたものを切り貼りしただけです。自分としてはオリジナリティがあるなどとは思っていませんが、世間様の目に晒すのは、おいらの自由です。原著作者から文句が出れば話し合いに応じるのは当然ですが、あらかじめ、一律に、機械的に、誰かに制限される謂れはねーです。
コピワンは、ニュース・映画・ドラマ・アニメ・ドキュメンタリー等の映像を引用してそれについてナニカ書く、という自由を強く制約します。それがフツーな世の中というのは、言論の自由の鮮ない(すくない)社会だと思います。
さらに、コピワンは国民全員が否応無く強いられる事であるにも関わらず、国会での議論もなく、パブリックコメントもなく、法的根拠はもちろん、誰が責任者であるかもわからない不透明な手続きで、一業界の都合で導入されています。これは言論の自由および法治主義の破壊行為です。
太古の昔からコピワンやDRMがあったら、三国志も源氏物語もこの世に残ってはいません。これらが残っているのは「これはとっとく価値がある」と思った人が自由に写本をつくれたからです。コピーによる劣化の無いデジタルだからこそ、極力オリジナルに近いものを後世に残せるハズです。別に学者に "価値のあるもの" を決めてもらう必要も、政府に補助金を出してもらう必要もありません。現世利益を無視するつもりも海賊行為を認めろと言うつもりもありませんが、機械的なコピー防止策は、文明を破壊します。
仕事の資料として映像を取って置きたい人には不便だし。これは授業で生徒に見せようという先生にも不便だし。うわ、見逃したっ!録画持ってねぇ?と学校で借りるのも不便です。それは映像市場を確実に衰退させるでしょう。てゆうか映像で商売するならまず客をシャ、あわわ、映像漬けにしなきゃマズいと思うんだけどなぁ。
自分でも学級会じみてるとは思いますが、これが原則です。そこすっ飛ばして著作権著作権言うても説得力が出ません。それが原則ではあるがこの業界にはかくかくしかじかの理由があるゆえに、例外的にコピー制限が必要なのだ。という手順を踏んだ正々堂々の論者をおれは知りません。
「映画の著作物」って規定があるのは永田喇叭さんがそれやったからなのよ~ん。
もちろんデジタル放送ではゴーストやスノウノイズが出ないという利点は大きいです。しかし、それらを勘定に入れても「地デジは画質が良い」と言えるかどうか、疑問があります。
走査線で映像を切り刻めばデータ量が減らせる。インターレースはただそれだけのものです。電子銃の無いFPD(液晶など)で使う理由はありませんし、デジタルコデックへの実装も難しくなります。なにより、作りたい映像をインターレースドで思い浮かべる作家は居ません。そもそも不自然な映像です。
一般的にはインタレ縞など見えませんが、実はそれは社会適応の一種だと思います。実際、エンコにハマってから自分は通常のテレビ視聴でも見えるようになりましたし、そのへんのストップウォッチでも1/100秒までは測れますから、少なくとも網膜は、1/60秒単位のインタレ縞を捉える性能を備えているはずです。
これはつまり、社会全体が「残像現象」があるからインタレ縞は見えないのですよと言う「科学的な説明」で納得していただけなのだと思います。まぁ、見えたからと言って楽しめないと言うほどではないですが、見えるもんは見えるんだいっ。フルスペック・ハイビジョン・パネルならなおさらくっきりと。
もっともこれはエンコ厨に限った話で、大多数の人は気にならないと思います。でもね。そうした社会が、720pに慣れた海外市場向けに「画質の良いテレビ」を作れると思う?
現在の地デジはMPEG-2。放送データの解像度は1440×1080。ビットレートは15Mbps程度。これは不十分です。仮にフレーム周波数 30.000hzで映像のBPPを計算するとこうなります。
ー | BPP | Vbitrate | w | h | fps |
---|---|---|---|---|---|
DVD規格ギリギリ | 0.87 | 9000 | 720 | 480 | 30 |
平均的なDVD | 0.58 | 6000 | 720 | 480 | 30 |
HDレコーダの「エコノミー」 | 0.39 | 4000 | 720 | 480 | 30 |
地デジ | 0.32 | 15000 | 1440 | 1080 | 30 |
これでブロックノイズが出ないわけがありません。地デジも本来はもうちょっと高いビットレートで運用する予定だったのですが、運用を開始してみると電波状態が思いのほか悪く、下げざるを得なかったようです。BSデジタルハイビジョンでは1920×1080でもうちょっと潤沢なビットレートを使っていたのですが、地デジ開始に合わせて同等に下げたと言います。
もちろん解像度が段違いですから、少々ブロックノイズが出たところでそう気になるものでもないでしょうが、生中継、特にスポーツなど動きの速い素材は厳しい筈です。
bpp = vbitrate(kbps) * 1000 / (width * height * fps)
静止画でいう色深度(256色とか、1670万色とか)と同じもので、1ピクセルあたりのbit量。ちなみに720pの場合:
ー | BPP | Vbitrate | w | h | fps |
---|---|---|---|---|---|
720p | 0.54 | 15000 | 1280 | 720 | 30 |
平均的なDVD並のBPPが使えます。ブロックノイズ・リスクという点で考えると、このへんが妥当な線でしょう。1920×1080(フルスペック・ハイビジョン・パネル)は解像度過剰です。MPEG-2の進化には先が見えている事を考えると実用上のバランス感覚を欠いていると思います。なぜ、無駄な解像度を採用したのでしょうか?
池田信夫さんの記事によると、解像度はさして重要では無いようです。
20年ほど前、NHKのハイビジョン・プロジェクトで視聴者のブラインド・テストをやったとき、われわれが衝撃を受けたのは、ほとんどの視聴者が画質を見分けられないということだった。ハイビジョンの番組と、普通の番組を単に横長にしたものを30インチ以下のモニターで見せると、90%以上の人が区別できない。いろいろな条件を変えて「どっちの映像がきれいか」と質問すると、もっともはっきり差が出るのは、色温度とコントラストで、解像度は最下位だった。
池田信夫 blog デジタル家電の足を引っ張るデジタル放送(2007-04 -19)
また、NHK技研の『日本放送技術発達小史ーテレビは進化する』にもこの結果を示唆する記述があります。以下抜粋すると、、、
"未来のテレビ"研究は1964、東京オリンピックの年に始まっている。"未来のテレビ規格"は70年代中盤に固まっているが、研究の順序としては、まず心理実験で人間が好む画面の縦横比(アスペクト)が5:3ないし6:3であること、臨場感を向上するには視角(映像が視界に占める範囲)は25度以上、できれば30度以上が望ましい事を突き止め、これを前提に「走査線は1100本以上が望ましい」という結論に至っている。
その理由は、 5:3(後に映画との互換性を考慮して16:9に変更)の縦横比で視角25度以上を得るには、画面の高さ (H)の3倍の視距離をとる必要がある (50インチのディスプレイで約2m)が、その3Hの距離で走査線の粗さを目立たなくするには、一本の走査線は、視力1.0の人の分解能である視角1分以下に収める必要がある。そーなるのが1100本。というもの。
自分はここから「ハイビジョン」の本分は、臨場感の向上にあり、縦1100本の解像度はインタレ縞対策に過ぎないと理解しました。1920×1080=200万画素だからナニカが向上すると言った記述は上記リンク先には見当たりませんでした。
デジタルであればインターレースは必要ありません。この後、80年代に入ると「ハイビジョン」に危機感を持った欧米から「デジタルテレビ」のアイデアが出て来ますが、彼らが持ち出した720p(1280×720プログレッシブ)と1080i(1920×1080インターレースド)は同等画質という説には一定の根拠があると思いました。
「ハイビジョン」と「デジタルテレビ」は元来別のものです。
アナログ | デジタル | |
---|---|---|
SDTV | NTSC:日米台 PAL:主にEU SECAM:主に旧共産圏だっけ? |
DVB-T: 世界一普及しているデジタルテレビ方式。多チャンネル化に重心。 HDTV も可能。 |
HDTV | "ハイビジョン"(MUSE方式) NHK技研が開発した世界初のHDTV |
デジタル・"ハイビジョン"(BSデジタル)1920×1080i@29.97fps 地デジ:1440×1080@29.97fps(横を1920に拡大して表示) 北米のATSC方式や一部の衛星放送:1280x720p@59.94fps |
「ハイビジョン」が"理想的な未来のテレビ"に端を発しているのに対し、「デジタルテレビ」は"未来の電波利用"という別のレイヤー、要するに「これからはデジタルだ」という確信に端を発しています。日本語の文献には枕詞のように「日本の技術力に危機感を持った欧米が」という一節がついていますが、ホントかなぁ?。
80年代を通じて90年代半ばまで、日本(というかNHKと旧郵政)は、「未来のテレビ」と「未来の無線利用(というよりデジタル革命)」のバッティングを読み切れず、アナログMUSEでバンザイ突撃を繰り返しました。理想のテレビへのこだわりを捨てきれなかったのか、なにか利権が出来上がっていたのかは知りませんが、損切りをすべき時に怠った事は確かです。
NHK技研がハイビジョン規格を固めたのが70年代である事も注意すべきでしょう(当時は高品位テレビと言った)。当時と現在では、テレビの使われかたが異なっているからです。彼らは50inを想定していますが、それは「居間に集まり一家団欒のひとときを過ごす」イメージではないでしょうか?。これは現在のライフスタイルとは重ならない部分があります。「自分の部屋にテレビがある」というのは今や普通の事ですし、其の場合ワンセグの解像度は小さすぎ、1080ではデータが大きすぎます。巨大なホームシアターで全需要をカヴァーできる時代ではありません。つまり、地デジの解像度は現在の市場と不整合、全国民に移行を強いるには、無駄なコストが多すぎると言う事です。
この項は池田さんのブログに30インチで実験したとあったのを見て思いつきました。というか正直に言うとNHKが衝撃をうけていた事に衝撃をうけた。だってソレわ720x480を320x240モニタで見て違いがわからんと言うようなもんぢゃないんかと、オマエラ先輩の背中見た事ないんかと、思ってしまったので。20年前って概ねバブル景気。バンザイ突撃フェア大絶賛実施中の時期です。いや池田さんがどうこうではなく、そこで衝撃をうけた「われわれ」つまり組織内の共通認識、空気に澱み(よどみ)を感じたと言う事です。『覇者の奢り』みてぇ。
次世代DVDやゲームしか映さないならともかく、全国民に移行を強制するTV放送としては、1920×1080(フルスペック・ハイビジョン・パネル)は不適切です。"デジタル放送"という新種の概念が出て来た段階で、"ハイビジョン"の概念は再構築(リストラクチャ/ゼロベースの再定義)が必要だったのだと思います。
そもそも「画質が良い」だけでは死亡フラグです。ベータやD-VHSが廃滅したのは、より利便性に勝る存在と競合して破れたからです。
利便性の問題はあずまきよひこ.com: ENTRY [著作権むずい] に集約されています。コピワンです。いままで普通に出来ていた事が、できなくなる。他に選択肢が無く、後戻りもできない。それは退化と言います。繰り返しますが北米にはこれは無く、英国にもありません。
なお、この点は地デジチューナーのD3/4/5端子出力を1080iのMPEG-2(なりなんなり)で録画すれば済むハズです。ただパソコンでそういう録画システムを組むのは面倒ですから、「箱から出せばそのまま使えるソリューション」が欲しいところです。 DVDレコーダの世帯普及率はまだ40%台であるにも関わらず、昨年の国内出荷台数は、前年比18%減となったという事ならば、HDレコーダ内部でやっちゃえばヒット確実に思えますが、大手メーカーはARIB/民放連が政治的な足枷となって身動きが取れないでしょう。中小ベンチャーや国外メーカーの参入はB-CASが阻むというわけですね。良く出来ています。
地デジ移行でテレビの利便性は確実に低下します。世界最低のレベルに、です。コピーライトがなきゃ商売あがったりだという主張には同情しますが、ここまでの規制に同意した覚えはありません。放送利権は、あまねく全ての国民にそれを強制する資格を、一体ダレから、どうやって、貰ったのでしょうか?
ラッダイト運動(wikipedia)
ラッダイト運動(Luddite movement)は、1811年から1817年頃、イギリス中・北部の織物工業地帯に起こった機械破壊運動である。産業革命にともなう機械使用の普及により、失業のおそれを感じた手工業者・労働者が起こした。産業革命に対する反動とも、後年の労働運動の先駆者ともされる。機械所有の資本家には憎悪の対象であったが、詩人には創作の霊感を与えた。
デジタル革命でも、ネオ・ラッダイト運動とかデジタル・ラッダイト運動とか言うものが起きると予想されていました。果たしてどこでどんな形で起きるのかはさまざまな予測がありましたが、どうしても「犠牲になるのはいつも庶民」という感じで「デジタルデバイド」とか「情報弱者」とか「巨大メディア企業に就職しなくちゃ!」みたいな方向にアタマを持って行かれがちでした。
んが、こうして並べてみると地デジこそがデジタル・ラッダイトだという気が、します。デジタル革命って「情報の大衆化」ですからね。それに対応できずに横暴な手段に訴えるものは、情報機器を所有する人々の憎悪の対象となるのでしょう。そこに霊感を感じる詩人がいるかどうかは知りません。
情報の結節点の上に築かれた放送利権は、
放送利権には、情報流通のサイクルからご退場願うべきです。
agehaにオリジナルなし
消費者団体訴訟制度(しょうひしゃだんたいそしょうせいど)とは、契約トラブル等により被害額は少額だが被害者が多数にのぼるサービスを提供している業者に対して、消費者団体が被害者に代わって訴訟を起こすことができる制度。
日本政府の新しい消費者行政の一環。同制度を盛り込んだ改正消費者契約法が2006年5月31日に成立。2007年6月7日からの施行が予定されている。
参考ブログ
【関連記事】
ageha内
外部リンク
立場や知識範囲が違えば、判断も、ものの見方も異なるのは当然です。いろいろな意見がありますので、コメント欄も合わせてご参考下さい。
【追記履歴】
2007/05/21:【関連記事】を追加
24.00です。